2008年05月08日

 翌日も、翌々日も、翌々々日も。アマネの生活に変化はない。
 朝起きて、作業場に出勤して、武具を作る。昼飯を貰って、また作業をして、日が沈むと作業は終了する。皆、さっさと帰途に就く。アマネは、その団体がいなくなってから、一人で門を出る。
 特に理由はない。つるむだけの仲間がいない。それだけだった。
 戻り橋はあれから、通っていない。
 夢だったのだと、思う事にした。
 それでも、いい夢だったと思う。鬼というのは、もっとおどろおどろしいものだと思っていた。――都では、鬼すら雅やかであるらしい。その点は確かに、田舎とは違う。
 もう一度会いたいような気も、しないでもなかったけれども。
 しかし、鬼である。この間はたまたま、機嫌がよかっただけかも知れない。今度あったら問答無用でがぶり、という可能性もなきにしもあらずである。――危険な橋は、渡らぬがよいのだ。生き残るためには。
 ――しかし。そんなポリシーを邪魔する傍迷惑な輩も、世の中には存在するのだった。

「……肝試しって」
 就寝の準備をしていたアマネは、その話を持ちかけて来た先輩兵二人に、思わず生ぬるく笑ってしまった。
「今、何月だと思ってるんです」
「何を云う。【腕試し】に、季節は関係あるまい」
 先輩兵の一人目が、二の腕を叩いて云った。――兵役の他に土木作業に駆り出される事もあるので、実に逞しい。
「考えてもみろ。このまま歩哨と土木作業に明け暮れてても、何も変わらんだろうが」
 二人目の先輩兵が云う。
「鬼を退治すれば、誰かの耳に入るだろう。うまくすれば、渡辺党にでも入れるかも知れん」
 ――渡辺党。渡辺綱という武士が率いる、戦者≪せんじゃ≫集団である。渡辺綱自身は、源頼光の部下であり、四天王と呼ばれている。しかも筆頭だ。とにかく、強い事には間違いない。
 武士、侍は、貴族にとっては下賤の者である。だが一兵卒にしてみれば、雲上の人であった。貴族にはなれないまでも、せめて正式な武士にでもなれれば――先輩達がそう思うのも、無理からぬ事であった。けれども。
 そんなに簡単に、鬼退治なんか出来るんですか――という台詞を、アマネは飲み込んだ。この二人が腕自慢だという事は知っている。下手にプライドを逆撫ですると、鬼の前に自分が殴られる。
「……で、何でまた、俺にその話を?」
 出来れば他の人に振って貰えないだろうか。そういう期待を込めて聞いてみたが、先輩二人は気付いてくれなかった。どころか堂々と。
「何、貴様にも加われとは云わん。ただ、見ておればよろしい」
「はあ。立会人――ですか」
「そういう事だな。鬼を退治しても、自分で話したのではホラ話だと思われる。お前は証人だ」
 わはは、と先輩兵は笑ったが。――自分達が返り討ちにされる可能性を、考えていないらしい。もし彼らが鬼に「負け」たら、最後にはアマネも殺されてしまうのだが。アマネにとっては、えらい迷惑である。――けれども。
 どうせ断れない。ヤバくなったらさっさと逃げよう、と心に決めて、アマネは気のない口調で聞いた。
「で、どこに行くんです」
「戻り橋だ」
 ――ふとアマネは、目を瞠った。

「……お前も聞いた事があるだろう。戻り橋には、鬼が出るそうなのだ」
 町尻小路を北へ向かいながら、先輩兵がアマネにレクチャーする。アマネは適当に相槌を打ちながら、二人の後ろを、一米≪メートル≫程遅れてついていく。先輩二人は、太刀を腰に刷いているが、アマネは腰刀を一本帯びているだけだ。
「何だお前、太刀を持って来なかったのか」
 馬鹿にするような先輩の台詞に、アマネは曖昧に笑った。
「これしか持ってないんで」
「何だ情けのない。お前とて兵士の端くれだろうが」
 ――つまるところ。アマネがそれ程大柄ではなく、気も強そうには見えず、さして反抗もしないので、それで白羽の矢を立てられたのだろう。ついでにアマネを馬鹿にして、憂さも晴らせるという訳だ。――まあ、そう思いたいなら思っておけばいい。それよりむしろ、気になるのは。
(……あの人)
 【人】ではないのだが、他に云いようがない。あの、茨木と呼ばれていた鬼。彼は今日も、戻り橋で舞っているのだろうか。だとしたら鉢合わせだ。彼がいませんように――と、アマネは願った。自分でも不思議ではあった、けれども、例え異形であっても、僅かなりと言葉を交わし、視線を合わせた存在が、殺されたり殺したりするところは見たくなかった。
 やがて彼らは、四つ角に出た。ここを左に曲がれば、戻り橋はすぐそこだ。
「……よし。準備はいいな」
 先輩兵二人は、顔を見合わせて頷いた。鯉口を切る。アマネは黙って、それを見ていた。
「行くぞっ!」
 ぱっ! と二人が飛び出していく。アマネは一歩遅れて、それに続き――
 どん! と何かに、ぶつかってしまった。
「あたっ。――あれ?」
 アマネは目を丸くした。眼前にあったのは、先輩の背中だったのだ。――飛び出した直後に、止まってしまったらしい。アマネは顔をさすりながら、一歩横にずれてみた。
「どうしたんです? ……か……」
 ――アマネも固まった。
 橋上に、異形がいた。

 巨躯。禿頭。
 黄色く光る、白目のない目。角のような耳。
 長い腕。剥き出しの牙、尖った爪――
 鬼、であった。

「お、鬼……」
 無意識だろう、先輩兵が漏らした声は、僅かに歯の根が合っていなかった。もう一人が、急いで抜刀する。しかしその切っ先も、小さく震えていた。そしてアマネは、と云えば――
(あの人……じゃない)
 ほっと胸を撫で下ろし――ハタと我に返る。安堵している場合ではなかった。正真正銘のピンチではないか。
「あの。逃げた方が――」
 よくないか、と云う前に。ぎろりと鬼の目が、人間達三人を見据えた。
 ――ずしり。鬼が一歩、アマネ達へ踏み出す。逃げる間もない。南無三、とアマネも腰刀に手をやった。そして、先輩二人は――
「う、う、……うおおおおっ!」
「覚悟おおおおおおっ!」
 声を半ば裏返らせながらも、鬼に斬りかかったのである。アマネは少し驚いた。てっきり、逃げ出すかと思っていたのだ。一応、腕自慢なだけの事はある。が――
 突き出された白刃の先から、鬼の姿が消えた。
「っ……!?」
 巨体が、頭上にいた。
 ――巨大な体から想像も出来ない、敏捷な動きだった。長い腕が広がり、その先で何かが光った――

 鋭い鈎爪。

 ――空が十筋に引き裂かれた。

「っ……」
 声を上げる間もなかった。先輩兵二人の胴から、血飛沫が噴き上がっていた。五条。間欠泉のような血潮を上げながら、二人は仰向けに倒れていった。ドッ! と地面に倒れた時は、既に事切れている。その上に、雨のように血潮が降りそそいだ。彼ら自身の血。
「……うっわー……」
 アマネはげんなりと、その光景を見つめた。この場合順当に考えて、次は自分だろう。――逃げ出したいところだが、背を向けた瞬間に切り裂かれて終わりだ。一度ぶつかって、活路を開かなければ。
 シュッ、と腰刀を抜く。――澄んだ鉄が、月光を反射して白く光った。その光に、鬼が一瞬、眩しそうに目を眇める。――が。
 ――轟音が迸った。鬼の喉から。
「っ……」
 地面が揺れるんじゃないかとアマネは思った。それ程の咆吼だった。鬼が一直線に、アマネ目がけて突進する。アマネは軽く、腰刀を握り直した。
 ――銀光二条。
 鈎爪と刀身が交錯し、一瞬の膠着の後。――血飛沫が噴いた。
 鬼の腕から。
 二秒遅れて、ごとっ! と重い音が響いた。
 腕だった。鬼の。
 鬼が絶叫する。アマネは腰刀を構えたまま、一歩飛びすさった。
 ――グォオオオオオオオオ!
 鬼の目がぎらぎらと輝き、アマネを見据える。アマネは口の中で舌打ちした。――決めなければならなかったのに、手負いにしてしまった。リーチの差が災いしたのだ。この腰刀では、鬼の体に届かない。懐に飛び込んでとどめを刺すしかないが、鬼もすぐには死なない。飛び込んだところを背中から切り裂かれる。もっと長い刀が必要だった。長い――
 ギシャアアアアアアア!
 どどどどっ! 橋を踏み抜かんばかりの勢いで、鬼が肉迫して来る。アマネはぎりぎりで、横っ飛びに転がった。――手を伸ばす。先輩兵の手から、太刀をもぎ取る。握り直す、だが、立ち直る前に。鬼の腕が既に、振り上げられていた。
(南無三……!)
 アマネが必死で、太刀で迎え撃とうとした――時。
 ヒュッと何かが、空を切った。
 ビシイッ!
 皮膚を打つ、鋭い音が立った。アマネは目を瞠った。鬼の額に、何かが激突したのだ。小石のようだった。血の筋が細く上がる。それ程の勢いだった、という事だ。鬼がゆっくり仰け反る。
 ひらりと何かが、アマネの横を通り過ぎた。
「借りるぞ」
「――え?」
 視界に、白い水干が翻った。
「あ――」
 ――茨木?
 だが、アマネが声をかける前に。現れた白い鬼は、アマネの腰刀を手に鬼に駆け寄っていた。――トン、と軽く橋板を蹴る。
 グアッ! 立ち直った鬼が腕を振り下ろす、それをすり抜けるように白い鬼は跳躍していた。垂直に。――鬼の頭上を、宙返りでもするように飛び越える。右手が鬼の肩に軽く着かれ、左手の腰刀がひらめいた。
 ドッ!
 ――銀色が、鬼の喉から飛び出していた。
 茨木が背後から、鬼の首へと腰刀を突き刺したのだ。
 ト、と、茨木が着地する足音がした。
 鬼の目から、光が消える。――腰刀が、鬼の首から引き抜かれた。血が噴き出した。
 血を流しながら、鬼は崩れた。ずうん……! 地響きを立てて、鬼は地面に沈んだ。
 アマネは呆然と、その光景を見ていた。
 倒れた鬼の向こうに、白い鬼が立っている。
 左手にはアマネの腰刀。――血の糸を引いている。
 ――彼は一度、その刃を眺めると。ヒュッ、と刀を振った。血雫が飛んで、橋板に一列の点線を描く。更に茨木は、倒れている先輩兵の衣服で、刃を拭った。――くるりと刃を返し、柄の部分をアマネに向けて差し出す。
「借りた。返す」
「……あ、はい。ああ、うん」
 アマネは上の空でそれを受け取った。鞘に納め、――改めて白い鬼を凝視する。
 白い鬼――茨木は、倒れた鬼を見下ろしていた。
 整った横顔は、僅かにしかめられている。悼んでいるようにも見えた。
「……あの」
 アマネがかけた声に反応して、つい、と顔が上がった。赤目が真っ直ぐ、アマネを見つめる。
「何だ」
「ええと、その……ありがとう」
 今度は丁寧語を使わないよう意識しつつ、アマネは頭を下げた。
「お陰で助かったよ。本当にありがとう」
「……別に」
 茨木は素っ気なく答え、――付け加えた。
「刀」
「え?」
「いい刀だった。――あんたのか」
 静かな問いかけに、アマネは自分の腰刀を見下ろした。
「うん。これは、村長からの餞別。徴兵されて、村を出る時に」
 アマネは鞘ごと腰刀を抜くと、ちょっと笑ってみせた。
「うちの村は、こういうのが生業なんだ。俺も一応、やってた」
「……ふうん」
 茨木はそれ以上は、何も云わなかった。もう、興味がないらしい。アマネは自分から切り出した。
「助けて貰って何だけど、よかったの?」
 赤目が胡乱気に、アマネを眺めた。
「何が」
「だって、鬼……だろう? 君。鬼が、鬼を」
「人間も人間を殺すだろう。それも、欲得ずくで」
 あっさりと返って来て、アマネは言葉に詰まった。
「こいつには、他の鬼も困っていた。それだけだ」
「……そう、なんだ」
 アマネは何となく、気が抜けてしまった。呆と茨木を見つめる。
 ――彼を見るとどうしても、ぼうっとしてしまう。
 半ば、この世のものではないからだろうか。
「……人が来る」
 ぽつり、と落とされた呟きに、アマネは我に返った。――茨木は耳に手を当てている。
「複数だ。武具の金属の音と蹄……」
「武士だ。――あ、君、早く逃げなきゃ。殺されるよ」
 アマネは慌てて云い、手を伸ばしていた。――とん、と掌が、茨木の腕に触れた。水干の上から。
「あ」
 ――驚いた。何に、という事もないが、触れた、という事に。
 鬼に触れた。
 不思議にも、怖くなかった。
「……急かすな。すぐ消える」
 人に触れられて、茨木も驚いたのか。少し面映ゆそうな表情でそう云うと、彼はくるりと踵を返した。橋板を蹴る、――寸前。
「あ、あの。茨木さん!」
 赤目がちらりと、アマネを見下ろした。
「――だよね。茨木さん、でいいんだよね。俺は、アマネ」
 茨木は少し眉を寄せた。不可解そうに。アマネは構わず続けた。
「羽村アマネ。――本当に、ありがとう」
 茨木は小さく、首を横に振ると――
 今度こそ強く、橋板を蹴った。
 ひゅっ、と風が巻く。――茨木の姿は、宙へと溶けた。
「……」
 茨木の消えた空間を、しばらく見つめた後。アマネは我に返った。頭をかく。
「俺も、逃げた方がいいのかな……」
 だがそうするには、少々タイミングを逸していた。
 アマネが振り返るのと、侍の一団が現れるのと、同時だった。

 ――馬上の侍が一騎。その前、左右に一人ずつ。後方に数人。武装こそしていないが、太刀はしっかりと腰に差されている。胴当てや胸当てだけはしている者もいた。
「――そこもと。ここで、何をしている?」
 先頭に立っていた侍が誰何した。更に、その隣の侍が。
「これは、如何に?」
 ――倒れた先輩兵二人と、橋上の鬼。誰が見ても怪しいだろう。アマネは一歩下がると、片膝を着いて礼をした。しかし口は開かない。下手に先手を切ると、どう叱責されるかわからない。
「……ふむ。其の方」
 馬上の侍が、馬を一歩進めてきた。この一団の、頭領格だ。堂々とした体躯と、引き締まった顔立ち。名のある武士だろうと思われた。顔だけ見ても、アマネには判別が付かないが。一層頭を下げたアマネに、男はやや口調を砕いた。
「構わぬから申せ。名は?」
「工廠に勤めています、羽村アマネです」
「して、これはどういう事か?」
「……先輩お二人が、鬼退治を。自分は立ち会いを頼まれて」
 侍達の目線が、一斉に、倒れた鬼へと向いた。
「では、相討ちか?」
「……ええと……」
 そんなところです、と云っておいた方が無難だろうか。アマネがそう考えた瞬間、頭領が馬から飛び降りた。先輩兵へと歩み寄り、太刀を取り上げる。
「血糊の跡がない。――使っておらぬ」
 頭領の目がアマネを向く。アマネは首を竦めた。――その様子に、頭領は苦笑する。
「別に怒らぬから、云ってみろ」
「はあ。しかし」
「この二人が――」
 頭領は、先輩兵二人の傷を見た。
「あの鬼にやられた事は明白だ。こんな傷は、人間にはよく残せぬ。誰もそなたがやったとは思わん」
「……自分が退治した訳でも、ないですから」
 自分がやりました、とはどうしても云えず、アマネはぼかして答えた。――部下の一人が眉を上げた。
「ほう。では誰が、この鬼を?」
「通りすがりの方です」
「武士か?」
「よくわかりません。あっという間でしたし。自分は怖くて、混乱していましたから……」
 淡々と告げるアマネを、頭領はじっと凝視した。
「その割には、落ち着いておるな、そなた」
「……はあ」
 アマネは曖昧に笑った。頭領はつと手を伸ばした。
「その刀。そなたのものか」
「ええ、そうです」
「ちょっと見せてはくれまいか」
 アマネはギョッとした。が、こんな偉そうな武士に「見せろ」と云われたら、ペーペーのアマネに逆らう余地などない。アマネは内心祈りつつ、腰刀を差し出した。
「あの、自分も一応、抜いたんです。でも手許が覚束なくて、落としてしまいまして。それを、先に云った人が拾って……」
「成程、成程」
 頭領は相槌を打ちながら、腰刀を抜いた。
「……ふむ。本当だな、使った跡がある」
「はい。あの、それで……」
「――よい刀だ」
 思わぬ言葉に、アマネは目をぱちくりさせた。
「……はい?」
「これは、どこで求めた?」
 ――殺人ではなく窃盗で疑われるらしい。
「買った訳じゃありません。自分のものです。故郷を発つ時、餞別に貰いました」
「ほう。――では、故郷というのは」
「鑪≪たたら≫を生業にしています」
「そなたも、その技術を?」
「一通りは。親方衆には及びませんが」
「ふうむ――」
 頭領は改めて、アマネを凝視した。顎をひと撫でする。――やがて彼は、何でもない事のように云った。
「そなた、私の下で働かぬか」
 アマネは反射的に、顔を上げていた。
「……は?」
posted by 森河 穂 at 21:27 | ◆散月奇譚
2008年04月23日

 ……天安の都に、月が昇る。生ける者にも、死す者にも、雲上の者にも地を這う者にも。どんな運命にも素知らぬ顔で、等しく涼やかに。

 ……羽村アマネは頭陀袋を肩に、一条大路を東に向かっていた。
 アマネは、兵部省に所属する職工である。――兵役を課されて地方から徴収された、上京組だ。鑪≪たたら≫を生業とする村の出身で、手先が器用だったため、工廠に配置された。今日も遅くまで、鏃の削り出しに追われていたのである。
 はあ、と溜息が漏れた。
 働くのは構わない。どうせ他に、する事もない。しかし、何だかなあ、という気持ちは拭えない。遠い地方から引っ張って来られて、戦がある訳でもないのに毎日武具を作って、給料は雀の涙である。いつか故郷に帰る時のために貯めておきたいのだが、それすらままならない。それとも、食いっぱぐれがないだけマシだと思うべきなのだろうか。そうかも知れない。故郷では、不作、飢饉も珍しくなかった。
 都とて、大して変わりはないが。
 華やかなのは有力な貴族だけだ。大通りの端には、餓死、病死した人間が、毎日必ず転がっている。時には、貴族の装いをした者さえ。
 「都」というものに、大して期待していた訳ではない。そんな期待を持てる程、アマネはもう無邪気ではなかった。しかしそれにしても、この現状にはがっくり来る。――楽土はどこにもない。わかってはいた事だったが、やはり、虚しい。
「はあ……」
 もう一度溜息をつく。――ふと、足許が明るくなった。
 雲が切れたのだ。アマネは顔を上げた。白い月が大きく、夜空に架かっている。
 きっと多くの貴族が、この月の歌を詠むのだろう。
 アマネには、全く関係のない世界だ。
 アマネはつと、歩みを再開した。――真っ直ぐ。
 このまま直進すると、戻り橋を通る事になる。かつて安倍晴明が、式神を棲まわせていたという話だ。ために、その頃から、奇怪な噂には事欠かない。鬼が出るとか、【招かれる】とか。
 実際、寂しい場所である。昼日中はともかく、夜になると、人っ子一人通らない。――アマネにしても、今まで一度も、この道筋は使った事がなかった。特段、官舎への近道という訳でもなかったし――
『戻り橋は通るな』
 それが、先輩兵の最初の忠告だった。
 あまり親切でない彼等が、それでも寄越した忠告である。アマネは素直に、それに従ったのだった。――従っていた。が、この時は。
 ふらりと足が、橋へと向いていたのである。
 理由はない。ただ、つり込まれるように、足が踏み出していた。それこそ、魔が差したと云うか――魔に魅入られたと云うか。
 疲れていたのかも知れない。
 のっぺりした土塀が続いている。ところどころが崩れ落ちており、破れ目からは荒れ放題の屋敷が垣間見える。――寂れた一帯なのだ。鬼が出なくても、敬遠したい通りである。
 アマネはぼんやり、足を進めた。不思議と恐怖は、感じなかった。麻痺していたのだろう。やがて前方に、緩やかな弧を描く橋が見えてきた――
 アマネは足を止めた。
 ――目を細める。
 何だろう、【あれ】は。この目の――錯覚でなければ――
 橋上に。
 人がいた。
 しかも。
 踊っていた。ゆっくりと。
 ――ひらり。
 ひらり。
 水干の長い袖が、ふうわりと翻る。白い素足が、やわらかくステップを踏む。音がしない。短めの髪が、さらさらと揺れる。
 ――白い。
 髪の毛が白いのだ。老人かと思ったが、そういう動きでもない。背も高い。もっと若いようだ。白子、というやつだろうか。珍しいな、と思いながら、アマネは意識せず、一歩踏み出していた。その時。
 くるりと舞い手が、振り返った。
 真っ赤な目が、アマネを見据えた。
「――」
 アマネは凍り付いた。その、赤目の強烈さに。そして、それ以上に――
 【彼】の前髪から覗く、二本の角に。
 ――鬼だ。
「……」
 アマネは声も出せなかった。その場に立ち尽くす。頭の中は真っ白だった。何も考えられない。――ただ、ふと。
 食われるのかな――と。
 頭の片隅が、ちらりとそんな事を思った。だが。やはり何故か、恐怖は覚えなかった。まるで人ごとのように。
 ああ、やっぱり麻痺しているなあ。
 そんな間の抜けた事を、ぼけっと考えていた。――と。
 鬼がぱたりと、扇を閉じた。
 手が下りる。――つ、と素足が一歩、アマネへと踏み出した。
「……お前」
 低くなめらかな声が、夜気を通ってアマネの耳に届いた。
 造作が綺麗だと、声までいいんだなあ――と、アマネがボケた感想をいだいた時。
「……何だ?」
 ――アマネはまばたきした。
「……は?」
 聞き返した自分も大概間抜けていると思う。が、この鬼も、どこか一本抜けてはいないか。――いや、油断させて、がぶりとひと呑み――という手なのかも知れないが。
「……何だ。お前は」
 アマネの問い返しに答えた――という訳でもないのだろうが。鬼は繰り返した。どうやら本気で、「お前は何なんだ」と聞いているらしい。アマネは、ぼんやり答えた。
「はあ。人間です」
 何故か丁寧語で答えてしまった自分が、物悲しかった。
「……。ふうん」
 鬼はしげしげと、アマネを眺めた。珍しいものでも見るように。――彼の方が余程、珍しい筈だが。
「……本当か」
 ――何だそりゃ。
 アマネもまじまじと、鬼を見返してしまった。人間以外の、何に見えると云うのだ。この自分が?
「嘘……じゃあ、ないですよ。人間ですよ。別に角も尻尾もないし。人間以外の生き物に、見えます?」
 思わず、尻の辺りを払いながら云ってしまった。鬼は尚じっと、アマネを眺めている。――その周りに、ふわり、ふわりと、青い光の玉が漂って来た。
「……人間がこの橋を通る事は、滅多にない」
 呟くような鬼の台詞に、はあ、とアマネは頭に手をやった。
「そうだなあ。俺も普段は通らないです。今日は、たまたまで」
 ……何、普通に喋ってるんだろう。
 アマネはぼんやり、そう考えた。――綺麗なせいかな、と思う。頭上に月。真っ白い鬼。青い鬼火。闇の中で、全てが仄かに光っている。夢でも見ているように綺麗だ。現実感がない。
 がぶりと食われたら、目が覚めるのだろうけれども。
 その時はもう遅いか。
「……お前、怖くないのか」
「はあ……何がでしょう」
 ――鬼が、か。戻り橋が、か。
 問い返したアマネに、鬼は怪訝な顔になる。それが妙に人間くさくて、アマネは思わず笑ってしまった。
「……何だ」
「いえ。……怖い……のは、確かに、怖いです。でも、なんか、頭がぼーっとしてて」
 この気持ちのまま死ねたら、いっそ幸せなのかも知れないな、という考えが脳裏を掠めた。
「夢でも見てるみたいで」
 へらりと笑ったアマネに、鬼は小首を傾げた。さら、と白い髪が流れた。
 ――す、と腕が上がり――
 ぱらりと扇子が開いた。
 ひらりと体が回る。水干の袖が空気を孕んで、ふわりと翻った。
『――茨木』
 小さな声がした。鬼火の囁きのようだった。
『茨木』
『茨木。行こう』
『人間だよ』
『もう行こう。茨木』
 ちょろり、ちょろりと、小さな光が集まってくる。青く冷たい、火の玉だ。よく見てみると、鬼火を纏った小さな鬼達だった。こちらは口が尖っていたり目が三つだったり、見るからに「鬼」の形をしている。彼らはアマネを見やった後、鬼の周りへと寄っていく。鬼――茨木と呼ばれた鬼は、まだ体を舞わせていたが。やがてトン、と橋の板を蹴った。
 体がふわんと、橋桁に乗った。
「――お前」
 橋桁の上から、赤目がアマネを見下ろした。
「もう通るな。ここは、鬼門だ」
「え――あの、」
「俺はもう行く。……渡った後は、振り向くな」
 すい、とアマネに背中を向けて。
 ひらりと鬼は、中空に跳んだ。
「あ――」
 一歩踏み出したアマネの前で。しゅわん、と風が巻いた。アマネは慌てて顔を覆い、――腕を下ろした時には。
 白い鬼も、青い火の玉も、跡形もなかった。
 月が涼しげに、アマネを照らしていた。

 アマネは戻り橋を通って、官舎へと戻った。
 振り向きたい心を抑えるのに、苦労した。
posted by 森河 穂 at 22:44 | ◆散月奇譚
2008年04月17日

 ……世界は見渡す限り、赤い砂漠だ。
 ヒトはかろうじて、その一部にへばりついているに過ぎない。

 ――雑貨屋で買い出しを済ませた和泉汐≪いずみ・しお≫は、バックパックを肩に、相方のいるスタンドへと戻った。
 化石燃料は既に枯渇した。風力と地熱がどうにかこうにか、人類の活動を支えている。
 ――スタンドの隅に、相方はいた。
 建物の庇の下、壁に寄りかかって、目を閉じている。横には彼の愛車、四輪バイク≪トライク≫が鎮座している。整備は終わったのか、道具や部品の類は見当たらない。――おいおい、と汐は呆れた。盗まれたらどうするつもりだ、いやそれ以前に。
「こんな無防備に寝てるなよ。襲われたらどうするんだ」
 汐はバックパックをタンデムシートに置くと、相方――社風馬≪やしろ・かずま≫の前にしゃがみ込んだ。しげしげと眺める。
 綺麗な顔だと思う。
 すんなりした卵形の輪郭だが、線はしっかりしている。筋が通った、整った配置。蜂蜜色の髪は、少しだけウエーブがかかっている。薄く色の入った眼鏡の向こうには、長い睫毛。今は目蓋を閉じているが、その下には、宝石のような緑と赤の目があるのだ。
 汐は黄金色の目で、とっくりとその顔を眺めた。赤い砂漠やら、荒くれたオヤジどもを見た後は、何よりの目の保養になる。
 つと、風馬の顔に手を伸ばす。汐の肌は、褐色をしている。風馬とは好対照だが、汐自身は気に入っている。
 眼鏡のトップをつまんで、すっと外す。風馬はまだ目覚めない。汐は眼鏡を畳んで手の中に収めると、一度立ち上がった。一歩近付き、背を屈める。
 ――唇で、触れた。蜂蜜色の髪に。
 ふわふわ、さらさらとした感触が、心地がいい。思わず指を差し入れて、梳いていた。――へらっと顔が笑った時、気圧の低い声がした。
「……おい」
 汐は手を引っ込め、体を起こして下を見た。
 風馬が目を開けて、汐を睨み付けている。
「――おはよう」
 にやりと笑って云ってやる。風馬はますます、目付きを険しくした。――赤と緑のヘテロクロミアが強烈だ。汐は綺麗だと思うのだが。風馬は手を伸ばし、汐から眼鏡を取り返した。
「何してやがった」
「目の保養。プラス、ちょっとつまみ食い」
「阿呆」
 風馬はにべもなく云い、眼鏡をかけた。薄いグレーが、色違いの目を無彩色で覆い隠す。残念、と汐は笑った。
「誰もいないんだ。いいじゃないか外してても」
「眩しいんだよ。サングラスも兼ねてんだ、口出しすんな」
 風馬の目は光に弱い。――だったら夜の間くらい外してくれてもいいのに、と汐は思うのだが。
「行くぜ。荷物しまえよ」
 トライクのシートに着きながら、風馬が汐を促す。汐は手を差し出した。
「鍵」
「ああ、ほらよ」
 キーは一本しかない。風馬が肌身離さず持っている。
 汐はトランクを開けると、荷物を入れた。きっちりと。蓋を閉めて、キーを風馬に返す。後部シートに着きながら、汐は聞いた。
「次は?」
「岻国≪ちこく≫だ。一級罪人を追跡して欲しいんだと」
「ブラックリストか! 久々だな。腕が鳴る」
 汐は目を輝かせると、指を鳴らした。舌なめずりせんばかりである。風馬は一つ溜息をつくと、釘を刺した。
「殺すなよ」
「俺に云うな。標的≪ターゲット≫に云ってくれ」
 心外げに云い返してから、汐はにやりと笑った。
「片付けたら何か、いいもの食わないか? 久々に」
「……報酬が弁償でチャラにならなきゃな」
「ついでにアンタも食わせてくれると、俺は最高なんだが」
 どすっ!
 肘鉄が容赦なく、汐の脇腹に入る。汐は大袈裟に万歳した。
「あ痛! 肋骨が折れたらどうするんだ、風馬!」
「そんなヤワな肋骨かよ。ダイヤモンドより硬いくせに」
「わかってるならするなよ。風馬の方が骨折れるぞ。あ、照れ隠しか! 照れるな照れるな、今更照れる事もないじゃないか。――あ、ついで発言はマズかったな。訂正する。ついでじゃなくて、メインは風馬だ。うん。これでいいだろ?」
「……振り落とされてえか」
「まっさか。安全運転で頼む」
 全く悪びれずに云った汐に、風馬は舌打ちすると――いきなりイグニッションを入れ、ハンドルを切った。バーに掴まっていなかった汐は、本当に振り落とされそうになった。危うくバランスを取り戻し、――運転を開始した風馬に抗議する。
「本気で落とす気か!? 仮にも相方を、砂漠の塵にする気かっ」
「うるせえ、この悪魔! てめえなんか、地獄に落ちちまえっ」
「地獄ならとうに見た!」
「カッコつけてパクるんじゃねえよっ」
 ――トライクは邇国≪にこく≫の街から、赤い砂漠へと走り出ていった。



■汐&風馬。設定変更、何度目だ・・・。
■これは某二次創作で使った舞台です。「夏の終わりの二重奏」でも使ってます。国と云っても「市」程度の規模です。小国ですね。それが赤砂漠の大地に点在していて、常にどこかで戦争をしています。機械文明は衰退していますが、かろうじて使えます。その代わり能力者や錬金術師が存在します。魔物もいます。それに対抗するために、剣などの武器が再台頭しています。魔物には、銃は効かない事が多いので。それに銃を作る技術そのものも、失われつつあります。
■汐風は「追跡屋」をやっています。人や者を追っかけて、回収したり、時にはぶっ壊したりする仕事です。
■風馬は銃を使いますが、実際に弾丸を撃つ訳ではないです。風馬は風使いの能力者で、力を制御するためのデバイスとして利用しています。汐は剣と武術・・・かな。
■海縡は故買屋さん、馨はアンダーグラウンドの医者、という事になると思います。
■風馬は元々、「赤い砂漠をジープで渡る運び屋」というイメージボードのキャラでした。だから戻って来たとも云えます。汐はもう、性格一新しました。そうでもないと多分書けない、と思ったので。元々攻キャラのつもりでいたので(爆!)作者的には特に違和感ないのですが、読んでる人には無茶な話だ(苦笑)。ぶち壊してすいません。
posted by 森河 穂 at 21:39 | 作品(掌編)